オペラ18号
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誰もやったことのない被災地での長期的な地域医療〝絆診療所〟という東北3県に通用するモデルメソッド被災地でも、最初に入った救急医療チームが帰ったあと、被災地では辛い状況が続いています。親から捨てられた僕自身も、拾ってもらった親から長期間のリリーフを受けました。被災地の人々は、必死に生きようとしていても、長期間にわたると、大きな波に呑み込まれるように落ち込むことがあります。そのとき、ちょっとした支えがあれば、また良い波が来ます。そのうち、大きな波だったものが、少しずつ小さな波になっていきます。そういう意味で、支援は、ワンポイントリリーフではなく、長期のリリーフをつないでいくことが大切なのです。――鎌田先生から見た遠藤先生は?鎌田 医師は、こんな大災害があっても、どこでも食べていけます。猪苗代病院にいたら一般の人からすれば信じられないようなお金がもらえるし、医師不足ですから、すごく感謝されます。そんな遠藤先生が、多額の自己資金を投入して、被災者のための診療所をつくられた。ご自身の給料は、おそらく出ていないと思れ(笑)、講演をお願いしたのですが、みません!」と鎌田さん)。います。普通の人にはできない、すごいことです。遠藤 自分がやるのが自然の流れと思ってこの診療所を始めたので、医者仲間から「よくやるね」と言われたけど、最初は何のことかよくわか らなかった。でも、今になってみると、よくわかります。個人で仮設の診療所をやるのは、あまり適切ではないような気がしています。仮設は2年間と言われていましたから、短期間で経営も被災者支援と診療の実績もあげるのは、すごく難しい、と今は思っています。それでも、どんな崇高な理念を持って始めたとしても、途中で終わったら何のためにやったかわからなくなるので、続けていくのが大事だ、と思っています。――遠藤先生から見た鎌田先生は?最初は「雲の上の人」でし遠藤 た。先生の本にサインしていただいて、少しお話をする機会がありました。「99床の病院か、中途半端だね……、一番大変だな……」と言わ「忙しいから」と断られました(「すでも、人の縁は不思議なもので、そこから先生と私はつながっていたのです。震災のあと一番最初に駆けつけて医療チームをつくってくれたのが鎌田先生でした。接してみると、現場に身をおいて、そこで自分の五感を働かせる感性が鋭い方だと思いました。鎌田 血を通わせようと努力している人を応援してあげたい、と思ってしまいます。震災で一番大変なとき、遠藤先生は小高病院から南相馬市立総合病院に移って、救援にあたっていました。先生は、病院の中の医療にとどまらず、医療が届かない弱い人がどこかにいるのではないかという視点を持っていました。そういう感性がないと地域医療はつくれないと思っていて、この人をちょっと応援すれば、きっとここに地域医療が根づくと思ったのです。僕たちは、安定した地域の中で健康づくりをしたけど、遠藤先生は、大きな被災をした地域の仮設住宅の中で、これまで誰もしたことのないような地域医療をしておられる。すごいことです。――これからの被災地支援は、どのように?鎌田 震災から2年半になり、福島、宮城、岩手の仮設住宅の生活は、精神的にも肉体的にもかなり厳しい状況に来ています。仮設の中で、そこに暮らす人たちの心と体を支える遠藤先生の活動は、東北3県にとってひとつのモデルになると思います。管理栄養士と医師と作業療法士が組んで、集会所でやっている健康づくりは、ひとつのモデルメソッドです。仮設に暮らす人たちが集会所に集まって、面白い話や役に立つ話を聞いて、さらに体に良いものをみんなで一緒に食べるというメソッドは、人々をすごくハッピーにさせて、元気づけます。こういう生活支援や健康支援に対して、NPOや国や県からもっと支援があってしかるべきです。遠藤 早く別の生活空間に戻してあげたいという想いがあります。でも、いつまでも辛い辛いと言っているだけでなく、少しでも良くなっていく過程をずっと伝えつづけて、みんなで一緒に「良かったね」と喜び合うこと11 JAPANESE ASSOCIATION OF OCCUPATIONAL THERAPISTSが大事です。たとえば、「復興住宅ができました」「そこに移れました」「みんなで喜んでいます」と少しずつ新しい希望の芽が出てくる過程を、その都度みんなに伝えていくことが大事です。この診療所も、別の所に移って、「新しい診療所ができました。また、鎌田先生に看板を書いてもらいました」となるかもしれません。そんなとき、みなさんで「良かったね」と喜んでほしいです。仮設のみなさんを、1日でも
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