作業療法にまつわるエピソード「あの日のできた」にたくさんの応募をいただきありがとうございました。
みなさまの「あの日のできた」をご紹介します。
デイサービスに通っています。重度のリウマチで手が変形をしていますが、作業療法士さんのアドバイスを受けながら、一緒にネット手芸をしています。今、作っているのは孫へのプレゼント。孫の喜ぶ顔を浮かべながら、作品作りに励んでいます。
手芸をしながら、作業療法士さんに「契約書のサインや生協の注文書で字を書こうとしても書けなくて……」と言うと、作業療法士さんが「じゃあ、さがみこさんが字を書きやすいように、ペンに工夫をしてみましょう」とペンホルダーを作ってくれました。
何度か試作品を作ってくれ、私の手に合うように工夫してくれた私だけのペンホルダーです。完成品ができ、「ためしに何か書いてみましょう」と言われて書いたのは、作業療法士さんに一番、伝えたいお礼の言葉。
「せんせい、ありがとうございます」
「いろいろ工夫してくださってありがとうございます」
担当作業療法士から
ペンホルダーの材料は、ホームセンターで購入した丸い木の棒と目玉クリップ、それに百均で購入した小物などを巻くバンドです。軽く、簡単に装着できることを重視しました。何度か試作品を試してもらい、ようやくさがみこさんが納得できる物が完成しました。作成したペンホルダーで最初に書いてくれた文字が私への感謝の言葉で、こちらが感謝の気持ちでいっぱいでした。
私は、創作が大好きです。縫物、手芸、折り紙……物を作って、自分で楽しむのはもちろん、人にあげて喜ばれることが好きです。
数年前に転倒してしまい、骨折をしました。転倒した後は、痛みで歩くこともできず、老人保健施設にショートステイでお世話になりました。その時に出会ったのが作業療法士さんでした。
転倒してからというもの「歩くことができず、何もできない…」と気分が落ち込み、それまで大好きだった創作からも遠ざかってしまいました。そんな私に作業療法士さんが「無理せず、今できることから、少しずつ取り組んでいきましょう」と私の落ち込んだ気持ちをほぐしてくれました。
幸い手は動きます。だんだんと「何か作ってみよう」という気持ちになり、作業療法士さんのアドバイスを受けながら、創作を続けました。
今も作業療法士さんのアドバイスを受けながら千代紙を使った椿の花や、吊るし雛、八角形の箱等を作って知人にあげて喜ばれ楽しんでいます。
これからもできる限り、自分も楽しみ、周りに喜んでもらえるように創作を続けていきたいと思います。作業療法士さん、本当にありがとうございます。いつまでもアドバイスをください。
私は、訪問リハビリテーションに従事していた作業療法士です。クリプトコッカス性髄膜炎にて入院しましたが、障害が残り、復職が困難になりました。復職が困難になった一番の原因は、視覚障害(1級)です。これからどうやって働くかを考えた結果、これまでの作業療法士としての経験を生かして「講師として働きたい」という希望が湧いてきました。
現在、私は就労移行支援事業所を利用しています。そこに在籍する作業療法士からICT(情報通信技術)デバイスを使用した資料作成や講義の模擬練習に必要な支援、移動を含めた施設外支援などを受け、作業療法士の同行があれば講義の仕事を行うことができるようになりました。その後、盲導犬が貸与となり、共に通い、共に過ごすことで移動の自立にも挑戦しました。
先日、自宅から現地までの移動を含めた講義の仕事を無事に一人でやり遂げることができました。障害をもって働くことの難しさを実感するとともに、日々の積み重ねの大切さに気づくことができました。働くことがこれほどまでにありがたいと初めて知りました。
突然脳卒中になった。
「リングに上がれるようになりたい。」
その時、麻痺は重度。日常生活も介助が必要な状態。あきらめるしかないのか…。
「リングに上がれる階段がどのようなものか確かめていただき、僕を上がれるようにしてください。近々教え子の試合があるので、セコンドにつきたいです。」
担当の作業療法士さんに切にお願いをする。教え子の試合は、1ヵ月後。やはり無理だろうか…。一生、このまま? 不安がよぎる。
いや、たとえ教え子の試合に間に合わなくても今できることをやろう。
日々の努力。
日常動作をはじめ、料理も自分でこなせるようになった。発症から約1年後。トレーナー職へ復帰もでき、今ではリングに上がれる。ミット打ちも可能。全身を鍛えるために余暇活動(海での水泳など)にもチャレンジしている。
私の仕事であるトレーナーは、選手たちができなかったことを、ほんの少し背中を押し、勇気を与え、できなかったことをできるようにサポートすること。社会復帰を目指す患者に寄り添う作業療法士も通じるところがある。
リハビリテーションもボクシングも上達(回復)する一番の近道は反復練習だと感じた。「地道なことが一番大切だ」と。
担当作業療法士 大見謝 勝人 さんから
前田さんは、陰で努力をするタイプでした。工夫した点としては疲労が蓄積しないようにストレッチやリラクゼーションを取り入れ、これを週2回も受けていました。また、過度に筋緊張がでていないことやスムーズに動作ができたことに対する確認を常に行っていました。
「出来た! 出来た!」
私は満面の笑みで画面越しの娘に手を振る。
脳梗塞で右半身に麻痺が残り、訪問リハビリテーションを利用していました。夫と娘の3人家族で、娘は生まれつき障害があり、施設に入所しています。定期的に外泊が可能なため、3人で過ごす家族団らんの時間が、私にとってかけがえのない時間でした。しかし、新型コロナウイルス感染拡大により施設の外出制限が2年近く続き、その楽しみは打ち消され、会えない悲しみは活動意欲も低下させました。
ある日、施設からZoomでの面会が可能と手紙が届きましたが、夫婦共に使い方が分からず諦めていました。しかし、作業療法士の方がマニュアルを作ってくださり、操作しやすいよう何度も工夫を加えながら練習してくださいました。
いよいよ面会の日、久しぶりに娘の顔を見て、笑みと共に自然と涙が流れていました。久々の家族団らんの時間となり、「直接会えるまで元気でいたい」と作業療法士に伝え、リハビリテーションの意欲も高まりました。
担当作業療法士 蛯原 勝也さんから
自宅にパソコンが無く、携帯会社に夫が操作方法を尋ねに行くも、「アプリ内の操作方法を教えるサービスまではやっておりません」と断られたことから始まりました。そこで担当のケアマネジャーにZoomの操作方法習得を支援内容に入れていただきました。
アプリ操作に慣れない高齢者にとっては小さい画面を指で押す作業は困難であり、違う画面に飛んでしまうことや前の画面に戻ることへの理解が困難でした。しかし、操作方法にペンを使用することでエラーが減り、なんとか作業療法士とZoomでのやり取りが可能となりました。
娘さんの施設相談員に事情を説明し、作業療法士も初回のZoom面会に同席させていただくこと、パスワードも入力しやすいよう数字のみに変更していただくことなど、娘さんの施設にもご協力をいただきました。その後、窓越しでの面会や直接会うこともできましたが、都度コロナの波で制限がかかりました。しかし、そんな時でもZoomの使用方法を習得していたため画面越しで娘さんと会えているとのことです。
2021年9月、私は脳梗塞を発症しました。病名をはっきりと告げられ、思ったこと、それは。50年近く趣味で楽しんできたギターのことです。「弾けなくなってしまうんだろうか?」と。
入院2日目の夜のことです。YouTubeから、魂の奥底に染み入るような音楽が聞こえてきました。日本語のゴスペルです。曲名は、西岡恭蔵さんの“グローリーハレルヤ“。私のコアを揺さぶります。
「この曲をギターで弾きたい、だから、ギターを諦めてはいけない!」とこの曲は教えてくれているようでした。
急性期から回復期へと転院し、リハビリテーションの目標を「ギターを元通り弾けるようになること」にしました。その時の指の開閉速度は右手(麻痺をしていない方)の約半分程度。人差し指でエレベーターのボタンが押せません。指が真っすぐに伸びないので、ボタンの上で滑ってしまいます。私の左手はそんな状態でした。
リハビリテーションをしていくにあたり、ウクレレで指の動きを良くして、それからギターへと私なりに考えた「ギタープレイ復活プログラム」を作業療法士さんに相談しました。作業療法士さんにウクレレをつま弾いている動作を見てもらい、動きを改善、復活させてくれるリハビリメニューを作ってもらいました。通常のリハビリメニューに自主リハビリメニュー。握力がめきめき復活し入院時8kgの握力は、退院時には16kgまでになりました。
発症して、もうすぐ1年になろうとします。ギターを弾くことを目標としたことでリハビリテーションが楽しくできました。ギターを弾くことを目標にしたこと、ウクレレ弾く様子を見た療法士さんがたくさんのことを教えてくれたこと、それらすべてが私にとって「あの日のできた」ことです。
脳梗塞の後遺症の改善は大変だと思います。遅々としてなかなか進みません。かといって諦めてしまえば、退化があるのみです。少しの向上・変化も見落とさず、諦めることなく生きていこうと思います。
最盛期の80%は弾けるようになったと思います。20%の不足を嘆かないで、少しずつ20%を埋めていく喜びを実感していこうと思います。
ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします。
30年程前、仕事終わりに書道を習っていたが、子育てのために断念した。子育てが落ち着き、またやりたいなと思って再開したが、突然病気になってしまった。
右手右足が不自由になり、8ヵ月も入院し、字を書くということが考えられなくなってしまった。
このまま右手で字は書けなくなってしまうのかと諦めていたが、訪問リハビリテーションの時に右手で名前の練習を始めることになった。
「字は下手だけど書ける」と思い始め、ペン、次に筆ペン、今は書道に挑戦している。
最初書いた「道風」という字は2文字目の「風」が崩れてしまったが、今では「紫陽花」「五月人形」という字も書くことができた。これからも好きな書道を続けていきたい。
担当作業療法士から
諦めかけていた書道を通じ、右手の練習としてだけでなく、楽しい時間として自信に繋がればと始めました。今回の投稿も言葉に不自由がありながらもご本人が文章を考えてくれました。やってみようと思える日々に繋がるよう、支援しています。
6年前、背中に強烈な痛みがはしり、1週間足らずで下半身不随になりました。2年半前に今の作業療法士さんとの出会いがあり、目標をもってリハビリテーションに取り組むことにしました。
一つ達成したら、ステップアップ。次の目標を決めていきます。
腹筋・背筋を鍛え、上半身の可動域が広がると、床に落とした物が拾えるようになりました。
座れる時間が長くなると、手芸も楽しめるようになりました。
車いすで移動するときにスロープを一人で上がれるようになりました。
以前できていたことが、再び少しずつできるようになることが生きる目標になっています。
今は、立ちたいという強い気持ちがあり、足に力を入れられるようになることを目標にしました。作業療法士さんに膝を固定してもらい、ベッド柵を持って立ち上がったときに見えた下方の景色。
6年ぶりに目線が高くなりました。目の前が明るく開けたような感じがして、とてもとても嬉しかったです。
拒食症を患って、働くことを諦めた。
生きる希望を見失った末、閉鎖病棟へと突き落とされた。
不安や悩みが渦巻いて、時雨心地で過ぎ去る日々。
「広場で作業療法しませんか?」廊下で私を誘う声。
「不器用な私にもできますか?」部屋から私が尋ねると、作業療法士さんは大きく頷いた。
優しく手招きするもんだから、退屈しのぎに部屋をでる。
目の前の作業に集中しているその間、不安や悩みは手放せた。
“失敗してもやり直せるし、手順通りでなくていい。一緒に考え、手伝ってくれる人がいる”
考え方に幅ができ、じんわり心がほぐれてく。生きていけるかも、不思議とそう信じれた。
次は何を作ろうか。心地よい疲労感のもと、思考は明日に向いていた。
やっぱり私、働きたい。諦めたくない、諦めない。
光明を見いだせたのはあの日の作業療法があったから。
一人暮らしで腰が痛くなってから、デイサービスにも行くこともできなくなってしまいました。そんな時、ケアマネジャーさんに訪問のリハビリテーションを勧められ、試しに利用してみようと思いました。
腰の痛みに対するリハビリテーションを行ってくれながら、生活のこともよくみてくれています。例えば、洗濯干しでいつも高い場所に手を伸ばしていましたが、作業療法士さんがフックを使って低くしてくれたことで洗濯ものが干しやすくなりました。他にも、手が届きにくかった冷蔵庫の一番下の野菜室にも工夫してくださりました。
リハビリテーションを行っていくうちに、ペットボトルの蓋も自分で開けることができるようになりました。また腰痛になってから髪を切ることも難しかったですが、作業療法士さん、ケアマネジャーさんの力を借りて髪を切ることもできるようになり、とても嬉しいです。
今は、近所のスーパーに買い物に行けるようになるのが目標です。そして、デイサービスの職員さんも再開を心待ちにしてくれているので、早く復帰したいです。
退院当初は脳出血の後遺症で、右手足が思うように動きませんでした。仕事に復帰することも決まっていましたが、不安でしかたありませんでした。
退院時にソーシャルワーカーさんが「不安なら訪問リハビリテーションを利用してみてはどうですか?」と提案してくれました。
訪問リハビリテーションを利用するなかで、作業療法士さんから身体面や家庭生活、仕事のことなどいろいろなアドバイスをしてくれて、徐々に不安が解消していきました。
特に印象に残っているのは、「週5日常勤で働けている自分を褒めてください」と言う作業療法士さんの言葉です。「週5日会社に出勤することで、確実に機能は向上するので無理に動かなくてよいですよ」と、今まで早く良くなろうと無理して歩いたり身体を動かしたりしていたのを、まるで陰から見ていたのではと思ってしまいました。
訪問リハビリテーションを利用時には駅から会社まで頑張って歩いて30分かかっていた道のりも、今では20分で楽に歩けるようになりました。
私は13年前、脳出血により左片麻痺となりました。2年ほど前から作業療法士の川崎さんに担当が変更になり、訪問でリハビリテーションをしていただいています 。
「写真を見たとき、緊張が高く、ぐっと曲がった自分の手が気になった」と相談したことで、上肢(肩から指先まで)のリハビリテーションを頑張ることになりました 。
初めは変化に気づくことができず、「変化があるのか?」と思っていました。しかし、 握りこんでいた 左手が徐々に開くようになり、爪が切りやすくなったことやタイマー機能を使用して両手で写真が撮れるようになったこと、日常生活の中で左手が右手を助けるような動きが増えてきたこと等、少しずつ変化が見られるようになりました。
ある日のデイサービスで、ふと鏡で自分の姿を見たら、手が横に降りていました。
意識せずに手が降りていることに嬉しくなり、続けていくことに意味があるということを実感しました。
現在は感染症によって外出は難しいですが、友人と旅行へ行った際に写真を撮る日が待ち遠しいです。
お好み焼き屋を営んでいたが、脳出血にて後遺症が残った。以前のようにお好み焼き屋を続けたいという思いがあった。
訪問リハビリテーションで来た作業療法士さんにそのことを告げるも、まだ作業療法士さんに出会った頃は、肘の曲げ伸ばし等も困難。前腕(肘から手首)等も筋肉がこわばり、自分でコントロールも困難な状態。
作業療法士さんと決めた目的は、歯ブラシを持って歯を磨くこと。できることから徐々にステップアップしていくことにした。
身体の機能向上のための訓練を中心に行い、その評価測定でも向上がみられていった。4ヵ月後には上肢(肩から指先)を自分で動かすことができるようになっていき、簡単な作業は可能になった。
現在はヘラを返すための練習をおこなっている。
去年の10月に急性硬膜下血腫になり入院して、今年の4月に家に戻ってこられた。
入院前は歩行器でどうにか歩けていたけど、退院後は車椅子を使うようになって、立つだけで膝が痛くて、何をするにも奥さんに手伝ってもらうのが申し訳なかった。
リハビリテーションは入院前からしていて、退院した後もきてくれて、一から運動や自主練習の調整、車椅子でも動けるように環境の調整やこぐ練習も一緒にして、少しずつ良くしていこうと頑張ってこられた。
7月頃には膝の痛みも減り、全部助けてもらっていた移乗やつかまり立ちも一人でできるようになり、歩行器で歩く練習も再開して気持ちも前向きになった。
そんな頃、奥さんが受診でいない時にトイレに行きたくなって、一人での心配はあったけど頑張ってみたら、失敗することなく一人で最後までトイレ動作をすることができた。
それが本当に嬉しかった。まだ1回だけだけれど、これからも頑張ってできることを増やしていきたいと素直に思えた。
今年の春に体調を崩し、入院してしまいました。なんとか自宅へ退院できたものの、体は思うように動かせず、ベッドの周囲を移動するのが精一杯で、これから先のことは全く考えられない状態でした。
家族に負担をかけることになり、自分の役割であった食事の準備ができなくなったことに落ち込む日々でした。
そんななか、訪問リハビリテーションを再開し、作業療法士さんが来られた際には毎回、不安や辛い気持ち、愚痴など色々と自分の思いを吐き出していました。作業療法士さんはどんな内容の話にも耳を傾けてくれ、いつでも安心して話をすることができました。
自分のことを受け止めてもらっている、寄り添ってもらっているという安心感に背中を押され、その後少しずつ自室の外へ移動できるようになり、約半年ぶりに台所へ立つ日を迎えることができました。
ほんのわずかの時間であり、十分なことができたわけではありませんが、次は何をしようかと前向きに未来を考える転機になりました。
健康第一で育ってきた私が脳梗塞と診断された時は、初めて聞く病気の名前に驚き、文字も書けず、一人で歩くこともできない状態に、先が真っ暗で毎日が暗澹としていました。
趣味だった写真も以前のようには出来ず、外出の機会も減っていました。
そんななか、去年の1月から作業療法士の小林さんが私の担当になり、「外に出かけてみませんか?」と誘ってくれました。週1日のデイサービス以外は家で過ごすばかりでしたが、一緒に外に出ることが少しずつ増えていきました。
春になり小林さんから桜の写真を撮りに行きましょうと提案がありました。車椅子で一緒に近所の桜を見に行きましたが、久しぶりに気持ちの良いひと時を過ごすことができました。
その時に撮影した写真を、小林さんはとっても気に入ってくれました。
それからは、妻が育てている季節の花が咲くたびに写真を撮るようになりました。昔のようには撮れませんが、デイサービスの日にスタッフの方に見せたり、周りの方に写真を見せたりして、みんなに喜んでもらえることが嬉しいです。
手に力が入らず、病院に行ったら脳卒中と診断され、先生に入院するように言われました。凄く不安で、入院中も帰ってからのことが心配でした。
家族にご飯をつくること、トイレにいくこと、お風呂に入ること…。入院中も、リハビリテーションをしていましたが、何をするにも一人ではできない状態で不安は募るばかりです。
退院してからも家でのリハビリテーションを受けたいと思い、主人を担当していたケアマネジャーさんに相談して調整をしてもらいました。
訪問リハビリテーションが始まると、作業療法士さんが来てくれるようになりました。
最初の目標は、ベッドから5m離れたトイレに一人で行けるようになること。それから少しずつ身の回りのことができるようになりました。
そして、今では自分で料理もできています。
先日は、友だちと外食することもでき、本当にうれしかったです。今度は、趣味であるガーデニングができることが目標です。
私の病名は両側腕神経叢損傷。この身体になった時、両肩から麻痺してしまってピクリとも動かなかった。いくら私がおちゃらけた性格だとはいえ、 流石に目の前が真っ暗に。
そんな私のところに救世主が現れた。作業療法士さんだ。それまで我が人生に全く関係のなかった人だ。
両腕ダラリで、こんなものどうにもならないと絶望していたのに、この人たちはリハビリをすると言う。「はっ!? なんざんしょ? これをどうやってリハビリするの?」
担当になった作業療法士さんに説得され、渋々リハビリを開始した。
少しも動かない両腕にイライラしながらも十数年、 歴代の作業療法士さんに励まされ、今はなんと手にタッチペンをつけて、この文章を書いている。
まあ、肘から先はまだ麻痺が残り、細かいことに介助がいるが、今の作業療法士さんとリハビリをしながら軽口を叩いていると自分が障害者であることを忘れる。
さて、今日もリハビリだ! 感謝感謝で頑張るぞ!